身近なもので表現を。
赤
街の変化
私は数ヶ月前に転職をし、毎日渋谷にある会社へ通うようになった。もともと人混みが苦手な私は、喧騒に満ちた渋谷の街にどうにも馴染めない。日々の仕事に追われていることもあり、いつも逃げるように駅へと足を向けている。
そんな私でさえ気づいたことがある。渋谷の街が綺麗になったと。渋谷スクランブルスクエアに渋谷フクラス、SHIBUYA AXSHなど、雑多な印象から洗練された都市に変化していっているように感じる。『“100年に一度”といわれる大規模な再開発の真っ只中』という記事もあったが、まさに工事中の敷地も多々あり、この街の変化はまだまだ終わらないのだろう。
そんな反面、整ってきた景色に寂しさを感じる自分もいる。昔の渋谷は壁という壁、今はもう見られなくなった電話ボックスなど、至る所に落書きが描かれていた。当時はワイルドというより「汚い」「治安が悪い」などのイメージが先行していたが、何かを表現しようとする者のキャンバスであったように思う。バンクシーの台頭によってストリートアートとして認められるような時代になったが、都市開発により洗練されたことによって、表現者の隙がなくなってしまい、その熱やメッセージが感じられなくなってしまった。
表現者の行き場
現代の表現者たちはどこで表現をするのだろうか。真っ先に考えられるのはSNSという「壁」だろう。
Xを始めとするSNSは、表現者たちの巨大なキャンバスだ。鬱憤や感情、ふとした思いつきや興味から始まったイラストや写真など、素人から洗練されたプロの作品までありとあらゆる作品が流れてくる。その多様さはまるで、あの時の渋谷の「壁」のようだ。だが誰でも投稿できるその場は同時に、喧騒の場でもある。多くの広告宣伝や対立した意見のバトルの場でもあり、せっかくの表現が瞬時に消費され埋もれていってしまう。その早さに、どこか空虚さを感じる場所でもあるのだ。
何かその表現を実体として残したい。できることなら喧騒の中ではなく、身近な場所に置けないだろうか。
ネットで出会った「壺」
ある日スマホでネットサーフィンはしていたら私は、興味深い商品を見つけた。
「アニメのキャラクターを模した壺」…
よく読んでみると、あるアニメ映画で登場人物が壺になるシーンがあり、商品はそれを精巧に再現したものとのことだった。
壺ってそんなに自由自在な物だったかな…そもそも壺ってどんな時に使う物だっけ…
あれ?壺ってもしかしたら絵や言葉が書けるのでは?
壺は中身を外気や光から守る性能が高く、古来より水や食料の保存、運搬用容器として使用されてきた。私が子供のころ、実家でも糠味噌づけや梅酒を壺で作っていた記憶がある。また、現代では花瓶や茶道具、骨董などインテリアとしても扱われ、有田焼など伝統工芸品や美術品として玄関や室内を彩っている。このように壺は実用品として使われる一方、美術品としても価値のある不思議な存在である。
この壺の表面の丸みは新しいキャンバスになるのではないだろうか?
身近な壺を新しいキャンバスへ
いやいや、そもそもスケッチブックに絵を描けばいい話ではないか!もしくは額に飾れる立派な絵を描けばいいのでは?と思われただろう。それがそう簡単にはいかないのだ。
実は先日、友人から絵を譲ってもらえる話があったのだが、残念ながら当日断念することになった。賃貸物件に住んでいる私の部屋には、その絵はあまりに大き過ぎたのだ。また壁に画鋲が刺せなかったため、頂いたとしてもただ床に置いてある静物になる未来が目に見えていた。
その分、壺はどうだろう。まず食料の保存に使う実用品の役割がある。お料理が好きな人なら、美味しい糠味噌や梅酒を作るのにいい機会になるだろう。また小さな花瓶のような物から、砂糖や塩など調味料や小物入れに使える大きさにこそ需要がある。室内にちょっとしたインテリア、ちょっとしたアートにもなるのだ。
壺に絵や言葉を描く陶芸教室がある。そういった所で自分の頭や心に浮かんだ風景、模様を描くことも良い。真っ白い壺が売っているので、そこに思いの丈を記すのも良い。表現する場所を失った人たちが、SNSで不特定多数に投げ出すのではなく、「壺」という自分の世界にだけ残してみる。そんな自分だけの表現をする場所があってもいいのではないだろうか。
総評38点(合格点70点以上)
■文章のプロット
① 街の変化 →綺麗になったことでストリートアートの隙がなくなった
② 表現者の行き場 →現代の表現者はSNSで表現しているが瞬時に消費され埋もれてしまう
③ ネットで出会った「壺」 →ネットで発見したキャラクター壺を知り実用的美術品の壺は表現するキャンバスになるのではないかと思った
④ 身近な壺を新しいキャンバスへ →飾るだけの絵とは違い実用品でもありながらインテリアやアートになるという提案
■クリエイティブ視点
前半は前回より読み物として体をなしていますが、後半のやっつけ感は前回のままです。
ストリートアートという視点からの切り込みは斬新で、どうやってテーマである壺につなげていくのか楽しみでしたが、
着地点がただの「絵付けのすすめ」であり、とってつけた感が否めません。
壺の持つ機能、形状、素材、文化的立ち位置やイメージなど、まだまだ考えを張り巡らせるポイントはたくさんあるのに、素材を生かしきれていないです。
■ロジック視点
こちらはほぼ皆無です。それっぽくつなげていますがツッコミどころ満載です。
下でも書きますが、著者の思い込みというか決めつけが多く、記事を読んで「なるほど!」とはなりません。
■加点ポイント
(1)起承転結
起承転結はできています。事の発端から問題提起、着想、結論と、読みやすくまとめられています。
前回の三角コーンから大進歩です。
(2)共感性
自分の体験から「街が綺麗になった」「昔の落書きだらけの渋谷」などを伝えており、読者が共感しやすい出だしです。
共感性を刺激することで読み手が読み進めたくなり、とても良い冒頭になりました。前回の三角コーンから大進歩です。
■減点ポイント
(1)タイトル
「身近なもので表現を。」が意味不明です。「壺」は一般層から身近でしょうか。
そもそもこのタイトルで記事を読みたくなるでしょうか。
タイトルにあえて「壺」を出さないやり方もありますが、その場合はもっと読みたくなるタイトルにするべきです。
例:「誰もが知っている身近な「アレ」がキャンバスに!?」→「アレ」ってなんだろうと読み進めたくなる
(2)具体性が少ない
全体的に具体性がないことで話が入ってこない部分がいくつかありました。
例えば、「街の変化」のセクションで「至る所に落書きが描かれていた」とありますが、どの程度の落書きでしょうか。普通の落書きなら渋谷を知っている人からするとまだまだ落書きスポットはたくさんあると感じてしまいます。これがただの落書きではなくストリートアート級のものであれば「表現者の隙がなくなってしまい」が共感されますが、そこの掘り下げがないと今の渋谷しか知らない読者からするとただの落書きしかイメージできないです。
→より具体的に記載すると説得力が増します。
例:私が学生時代の平成00年頃の渋谷は古びた無機質なコンクリートの壁ばかりで、今のMIYASHITA PARKのある宮下公園は、外壁から公衆トイレまで様々なハイクオリティーな落書きが「我こそが一番のアートだ」と言わんばかりに主張しあっていた。ストリートアートという言葉が馴染みのない時代だったこともあり、当時は「汚い」「治安が悪い」などのイメージが先行していたが…
(3)説得力がない
記事の後半は特に説得力がないため読んでいても読者が置いてけぼりにされてしまっています。
・表現者の行き場のセクション
渋谷で落書きしていた表現者がSNSに流れているような書き方ですが、本当にそうでしょうか
・ネットで出会った「壺」のセクション
「アニメのキャラクターを模した壺」の掘り下げがなく、このセクションでの結論である「壺がキャンバスになる」が無理やりすぎます。
途中に壺の説明が入ってくるからこそ、唐突感があります。
壺の絵付け自体は古来からやられていることなのに、そこには触れず「キャンバスにできるのでは?」という発想が読者を置いてけぼりにしている感じです。
そもそも絵を描くのに壺である必要性がどこにも書いていないです。
・身近な壺を新しいキャンバスへ
「スケッチブックに絵を描けばいい話」が簡単ではない例として、「大きすぎた絵が入らない」、「画鋲も刺せない」というのは例になっていないです。
「壺は便利だから表現するのに最適」→最適な理由が入れ物として使えるからだけでしょうか。
「表現する場所を失った人たちの場所は壺」→壁の落書きがなくなったことでなぜ表現する場所を失ったことになるのでしょう。そもそも「壁」と違って室内にある壺は不特定多数の人に見せられません。
これらの結論が前段の文章から全く読み取れないため、読者は「なんでその結論になったの??」となってしまいます。